「老い」を迎え始めた両親へ


 父方の祖母は認知症を患って亡くなった。認知症というのは残酷だ、とそのとき思った。本人にとってもだが、周囲にとっても、そのプロセスを受け容れるのは容易なことではない。まだ人間的に幼かった私は、その介護のフェーズを傍観することしかできなかった。
 母方の祖母は97になる今、さすがに少し記憶力が衰えたとはいうものの、まだまだしっかりしている。呆けないことが幸せか――年を経て余分なものが削ぎ落とされた中で過去の自分や周囲と向き合うことは、ときとして呆けるよりずっと厳しい。
 いずれ「老い」とは、多かれ少なかれ残酷なものなのだろうか。


 然るに、人誰しも老いは迎える。どんなにしっかりした人であろうと、生きるために多少なりともひとの手を借りるようになる。ひとに支えられ、ひとの手を煩わせて生きていく。それを認め、周囲も許容する中で、互いに寄り添っていくところに幸せな老いというものもまた、存在し得る、と思う。
 

 究極、本当に残酷なのは、“ひとの世話になる”という認識を欠くことなのだろう。そこからは「受け容れ」は生まれない。本人が受け容れないところに他人の容認もない。
 認め合った中からしか生まれないもの――それを今、家族が共々に学ぶときが来ている。