おばあちゃんってどんな人……


 取るものも取り敢えず東京入りしたその日、叔父宅に安置された祖母と対面した。2日後通夜、翌日告別式……。祖母の姉妹たちをはじめ甥姪など姫路勢総勢7人も、納棺の前に間に合って駆けつけてくれた。


 明治45年、兵庫県姫路の郊外の村で生まれた祖母は、15の年に母に逝かれ、幼い兄弟姉妹4人と父の世話を一手に引き受け、農作業も人一倍、学校の成績も他に引けを取らなかったそうだ。婚期は遅れたものの26歳で父親が見初めた祖父と結婚。ハンサムで優しく人格者と、3拍子揃った夫と共に、遠く故郷を離れて満州で所帯を持った。
 警察隊長として各地に赴任し、最後の駐屯地は黒龍江省東安鎮という村だったと聞いている。ハルピンからチャムスへ、松花江を下って同江、富錦を越え、黒龍江アムール川)との合流点を過ぎて尚、奥へと入った辺り、川を挟んで向かい側にはハバロフスクの村が見えた、と話していた。
 穏やかで豊かな生活ぶりは、終戦直前、昭和20年8月6日のロシア参戦で一変する。全てを捨てて着の身着のまま、身重だった祖母は3人の子供と夫とともに長い長い逃避行に入る。食べ物も水もない中、ばたばたと倒れていく日本人、傷ついて歩けなくなった人々の間を逃げて逃げて……やがて“幼子は泣くから処分せよ”との日本兵の非情な命令に背くことも許されず、2歳の春子という女の子を祖父は我が手で葬った。人が人でいられなくなる戦争の只中で、歩いているうちにお腹の子を流産、飢えと疲労、産褥で動けなくなった祖母は、傍に残るという夫に、子供たちのことを託して先に行くよう懇願した。祖父が命を落としたのはそのすぐ後のことだったらしい。
 収容所に入ってからの祖母を支えたのは、子供たちを連れて内地に帰る、というただその一念だった。劣悪な環境の中、腎臓を悪くして死ぬ一歩手前で命拾いし、人格者だった祖父の温情を受けた満人の助けも得て、何とかその冬を越す。それからは別れ別れになってしまった子供二人を探す旅だ。
 家族がばらばらになった地点から、訪ね歩いて数ヶ月。何とか二人の子を見つけ出すことに成功する。二人は別々に貰われていた。母は裕福な朝鮮系の家に、叔父は最底辺の匪賊の村に。母は「ヨンナナ」と名を付けられ、綺麗に着飾って大切にされていたようだ。しかし貴重な男手になることを期待されて豚追いをさせられていた叔父を取り戻すのは容易なことではなかった。追い返され、銃鈀でしたたか頭を殴られ、昏倒。盗み出すようにして追っ手を振り切り、なんとか無事に救い出すことができた。
 終戦から1年後、何度も死線を越えながらも、二人の子と共に帰国。しかしながら無理に無理を重ねた身体は限界をとうに越え、2年間の病院暮らしを余儀なくされる。それから母子寮での生活。以後は銀行に職を得て定年まで、その後は生保に籍を置いて80を数える歳まで現役で働き続け、二人の子を育て上げた。


 ざっとそんな人生を送ってきた祖母である。もう少し詳しい話は、姫路とも縁のある阿部知二氏(作家・英米文学翻訳家)が、聞き書きとして『荒野』という作品にまとめてくれている。阿部知二作品集全5巻の第4巻に収録されているので、縁の方は一度読んでやってください。


 祖母が逝って1週間が過ぎた。泣き崩れた母も、徐々に日常を取り戻しつつある。類稀な根性とバイタリティーの人だった祖母、強引なほどの愛情を惜しむことなく注いでくれた祖母は、もういない。