サンパウロ移民博物館


 久々の好天に恵まれ、歴史を紐解く見学会に参加した。時は19世紀後半、コーヒー産業の隆盛や奴隷解放を背景に、ブラジルに移民の波が押し寄せた頃の話である。


 日本移民がそうであったように、多くの移民は海路はるばる旅をして、サンパウロの南東75km、海岸山脈を一気に駆け下りた海辺の町、サントスの港に着いた。サントス=サンパウロ間の鉄道が敷設されたのが1867年、近代日本が産声を上げる日も近い大政奉還の年のことである。そして20年後の1887年には、外国移民の積極的導入政策を受けて、サンパウロに移民収容所が開設された。以降、サントス港でブラジルへの第一歩を記した移民は、そのまままっすぐ列車に載って、この収容所に向かうこととなった。

 

 収容所は、現在のLUS駅(サンパウロ中心部)まで敷かれた鉄道の沿線上にある。敷地の一隅には駅が設置され、このプラットフォームに降り立った移民は実に300万人を数える。後に『移民列車』と呼ばれるようになった由縁である。収容所は通常3000人、最盛期で8000人を収容したといわれ、人々はここで移民登録を行いメディカルチェックを受け、配耕地からやってきた引き取り手と顔合わせをして、将来への希望を胸に、新しい生活への第一歩を記したのであった。
 移民収容所は博物館として修復・公開されている。また、ここに収容された各国移民300万人一人ひとりの名前はデータベース化され、館内の端末から検索することができる。

 


 現在、この建物には『アブリーゴ』と呼ばれる路上生活者の収容施設や、『ボン・プラット』の名称で親しまれている低所得者向けの食堂(1ヘアル(50円程度)で食事を提供する)も併設されている。
 下、左は真っ白な花がかぐわしい芳香を放っていたマダガスカルジャスミン。右は開花間近のコーヒーの蕾。やはり開くと真っ白な花を咲かせる。降り注ぐ陽光の下、花咲き乱れるブラジルに降り立った人々の希望と期待を、今も静かに語り継いでいる。

 


  ◆Memorial do Imigrante
   Rua Visconde de Pamaíba 1316, Mooca
   ℡:6692−1866