心満たされる日々に向けて


 無我夢中でひた走っている時期は、ある意味幸せだった、と今にして思う。同時に、“人生はまだ始まってなかったな”とも思う。押し流されてきた潮流から外れたとき、人は初めて自分の「レゾン・デートル」と正面から向き合わざるを得なくなる。そして、それまで庇護してくれていたいろんなものを脱ぎ捨てた“素の自分”に一体どれだけの価値があるのか、これからの人生、自分でプランニングをし、またそのプラン通りに構築していけるものなのか……悩み、もがく日々が待っている。この山越えなければ人生を自らの手に取り戻すことはできない。


 定年まで勤め上げた人はそういうこととは無縁か、というと、決してそうではないと思う。「定年」という節目は人生の卒業を意味しない。むしろ“潮流から外れる”のが一番遅くなった人のケースじゃないか、と思う。決断の時は引き伸ばされたかもしれないが、それまでにどれだけ人生について考えを深めてきたか、「その後の生活」への布石を打ってきたかが勝負の分かれ目だ。掛けてきた時間の長さに安閑と胡坐をかくことなく、自分にとって“仕事”とは何たるか、何を与えてくれ何を阻んできたのか、幕引きの前にあとどれだけのものを手中に収めておくべきか……職場の中にいる自分を俯瞰してシビアに見詰める作業を、いずれどこかの時点で始めなければならない。それは仕事に依存することなく、人生の“方向付け”をする作業だ。その思索の成熟度こそが、ターニングポイントを迎えたとき、自分と、今後進むべき道を見失わずに、次のフェーズに向って素早く切り替える原動力になる。
(あくまでフツーの人の話、ね。例外的な天才や神の寵愛を受けて生まれてきた幸せな人のことは放っといていいのだ。。)


 方向転換を余儀なくされてふと立ち止まったとき、身体と心、生活が、一本のベクトル上に整然と並んでいることが良くわかる。そのベクトルが随意に“可変”である、ということもまた、立ち止まった者でなければ案外分からないのかもしれない。
 レールの上を走り続けた日々、学生時代から社会人としての職場生活に至るまで、人生は比較的単純で、『努力・ハードワーク・交際・ちょっぴり生活感』これだけで総括できる、という程だった。勉学や仕事がすべての方向性を不可避な形で決定していた。身体も心も生活も、必然的にひとつの方向を向いていて、それはそれでバランスが取れている気がしたものだった。そしてある日、そのレールから降りざるを得なくなったとき――あたかも“舵を失った船”みたいに、一体どっちへ向かって歩けばよいやら分からない混沌の中に突き落とされた。


 やがて長い長い時間の後……内面の“作業”を経てようやく「仕事しなきゃ」中毒の禁断症状から解き放たれるときが来て、人生は今、喜びと幸せを紡ぎつつ歩む静かな道程として、以前よりずっと穏やかな表情を見せている。心のあり方の違いで、こうも歩くペースが違うものか、見える道端の風景が異なってくるものか、瞠目する日もある。未だに焦りを感じることも無いとは言わないが、身体・心・生活のどれかが異議を唱えたとしても、他の要素がストップをかける。3つがバランスして、今の人生をひとつのフォルムに形造っている。その調和を感じるとき、いわく言いがたい一種の「安定感」に満たされる。


 こういう話って、誰もが感覚的にはイメージしていることを言葉に置き換える作業だから、労力の割には感心されないんだよね。でも、久しぶりに頭使った気がするよ。。